七田校長の「パソコン音痴からの道のり」2
~ Era of straying after encountering the computer ~

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七田校長の「パソコン音痴からの道のり」2

~ コンピューターとの出会い、そして迷走の時代 ~

1989~ 某中央官庁の外郭団体に入社

ここでコンピュータに出会う。
この職場では、アップルコンピュータ社の「Maintosh SE」という今思えばとてもキュートなパソコンが、なんと1人1台あてがわれていた。

当時パソコンが1人1台体制の職場なんてかなり恵まれた環境なのだが、その頃の私にそんな有難味など分かろうはずもない。
私にとって、コンピュータも「事務仕事」も初めての経験。今でこそ、人にパソコンを教えたりしているが、元来、根っからのアナログ人間だ。

機械的なものは全く駄目で、仕事の中で何が嫌いって、ワープロやコンピュータくらい嫌いなものはなかった。

職場の上司から預かったフロッピーディスクの中身をぐちゃぐちゃにして返し、何度かOAブースの方から彼の悲鳴を聞いたことがある。
「七田にはパソコンを触らせるな」というお触れが実際に出るくらい、誰もが知る機械音痴だった。入社して何年か、私がパソコンを使えないことは職場ではちょっと有名な話だった。

でも、職場でのそういった自分への評価が私は全く気にならなかったし、むしろ「パソコン駄目社員」という自分の揺るぎない立場を職場内で確立して、定年まできっちり勤め上げる気満々だったのだ。

 

(下)入社してからも絵は続けていて、グループ展も数回開催。

 

1991~ スカイダイビング

テレビで女優の菅井きんさんが何かのインタビューを受けていて、「夢はありますか?」との質問に「スカイダイビング」と答えているのを見て触発を受ける。
日本でスカイダイビングのできるスクールを探し回って、ようやく見つけた栃木県のスカイダイビングスクールへ。(当時はインターネットがなかったので、探すのにたいへん苦労した。)

ご存知だろうか?飛行機から飛び降りて最初の5秒間は、あの下半身にズドーンとくる恐怖の落下感がしっかり襲ってくるが、その5秒を持ちこたえたあとには、空を飛んでいる、浮遊感がやってくるのだ。

落下直後は加速度がどんどん上がっていくため、いやおうなく落下感を味わうことになる。当然、意識が自分のスピードについていけない。

しかしそれから加速度と空気抵抗がちょうど釣り合って等速落下に移行する。等速運動に変われば落下感は全く感じない。飛行機から離れてからそこまでの時間が約5秒。
そうなると、全くの初心者でも、落ち着いて周囲を見渡したり、笑顔を作ったりできるのだ。その時点での落下速度は時速200km。新幹線並だ。

 

 

ファーストジャンプは夕刻だったが、いままで味わったことのない体験となった。
正面にはこれまで見たことのない夕焼け、眼下には轟音とともにせまりくる真っ黒い真円の巨大な大地。全身で感じる暖かい水蒸気。

よく人に、「人生観変わった?」などと聞かれるが、正直、人生観までは変わらない。そう答えるとがっかりされてしまうが・・・ 

むしろ、これまでずっと引っかかっていたことがあって、それが改めて再確認できた、という感じ。話せば長くなってしまうのでこれくらいでやめておくが、メンタルな部分でかなりプラスになったことは言うまでもない。

ちなみに、私はファーストジャンプの最初の5秒の間に、幽体離脱を体験(?!)。(2回目以降、そういうことは全くなかったが・・・)その話はまた別の機会に。

 

 

1992~ 書道師範になる

仕事のかたわら、御徒町にある日本教育書道芸術院という書道学校の師範養成科に入学。(94年師範免状 のち同会依嘱)
雅号は「菅石」。現在のイラストのペンネームはそのままここからとった。

「2年で師範」と謳っている学校だけに、かなりのスパルタで、膨大な数の字を書いた。宿題も出たが、自分自身も書き出したら止まらなくて、展覧会前など、一週間に半切(35×136cm)100枚以上は書いていた。

夏季合宿というのもあった。伊豆だの苗場だののホテルの体育館を借り切って、床一面に毛氈を敷き、何十人もの老若男女が床の紙に向かって筆を動かす光景は、普通はちょっと想像できないかもしれない。

在学中は毎年全国公募展に出品し、何度か入賞したことがあるが、あまり実感はない。
小手先が器用なのと、大胆さ、奇抜さで評価されたのかもしれない。正直賞なんて貰っても、自分の字の良し悪しなんてさっぱり分からないのだ。

一度大手新聞社から、取材のオファーの電話を貰ったことがある。
どこで調べたか勤務先に連絡があったので、何事かと思った。

「あ、七田菅石先生でいらっしゃいますか?現在公募展に出品されている先生の作品、とても感銘を受けました!あの大胆な文章が奇抜で素晴らしい。是非日曜版に載せたいので取材させてください!」

どんな文章だったかというと、

  彼女の愛するものは
  彼女の肩より高く大きく 
  その一部は
  彼女の展いた両脚の間にある
  ・・・

そんなフレーズで始まるものだった。

ただ、この詩は私が選んだものではない。
展覧会出品のための題材を決めるため、師匠(女性)のもとに自分で選んだワーズワースの詩を持って相談に行ったところ、
「菅石ちゃん、こんなのおとなし過ぎて全然ダメ!菅石ちゃんの場合はもっとエッチな方がいいのよ!」と言って選んでくれたのがこれだったのだ。

ちなみにその取材のオファーは、その場で丁重にお断りした。
よくよく話を聞いてみると、取材と言いながら「広告料」なるものが発生するというものだった。電話の主はおそらく、記者さんではなく広告屋さんだったのだろう。

本当はしっとりとした大人の字を書きたいと思うが、それにはやはり歳を重ね、徳を積まねばならないのだろう。

普通に字を書かせると、誰が見ても「下手くそ」以外の何物でもない。

現在私はパソコンスクールで、レッスン中にホワイトボードを使うことが多いが、いつも
「すみません、字が汚くて・・」
と言い訳することにしている。すると生徒さんは一瞬ホワイトボードに目をやったあと、
「パソコンやってると、どうしてもね」
とフォローしてくれるのだ(笑)。

今も私の自宅の押入れには、書道学校から戴いた開塾用の看板が、退屈そうに眠っている。

この学校に通って本当に良かったのは、いろんな世代や立場の方々とわだかまりなく話ができる環境が用意されていたこと。

入学してまもなく、性別も年齢もばらばらの5、6人の仲間ができた。構成は、会社の役員らしき熟年の男性、OL、社長さん、フリーのデザイナー、主婦、そしてサラリーマン(私)。いつも一緒に行動するようになり、互いに敬意を払いながらも、食事をしたり、書道や映画や本の話をし、その仲間同士で毛筆のリレー小説を交換したりもした。私たち以外にも、同じようなグループが沢山できていた。

「書道」という世代を超えた共通テーマのもとに人が集まると、各人の本業での立場とか、年齢差という垣根はいっさい取り払われてしまうようだ。理想的なコミュニティであり、私のスクール運営の目指すところでもある。

ただひとついえるのは、当時の私のような30代前後の男性の勤め人は、一番数が少なかったこと。当然か。この世代は中堅クラスの働き盛りで、趣味などに時間を割く余裕もないのが普通なのだから(笑)。

 

(下)最初の2点は公募展「東京書作展」入賞作品。
3点目は、母親がくも膜下出血で倒れたころ書いた写経。私は無宗教だが、不思議なもので自分の力でどうにもならない状況下では、どうやら神仏に頼ってしまうようだ。本当はお寺に納経すべきものなのだが、ずぼらな私はそういうことも知らずただ書きっぱなしだった。引越しのとき押入れの奥からしわくちゃな状態で出てきた。今思えば母親のためというよりは自分のために書いたような気がする。

 

 

1996~ 仕事と向き合う

職場では、「パソコン駄目社員」という立場を確立して、のらりくらり定年まで勤め上げるつもりであったことは既に述べた。
そうもいかなくなったのは、ある年の人事が絡んでからだ。これが懲罰か、はたまた温情なのかはよく分からない。

職場でコンピュータまわりを整備して業務の効率化を図ろうというプロジェクトが立ち上がり、システム検討委員会なるものが発足されたのだ。
そしてなぜか、コンピュータとは無縁の私がその事務局のひとりに。

パソコンはマッキントッシュを何とか我流で触る程度にはなっていたものの、もちろん、別に「詳しい」と呼ぶには程遠かった。
それに何しろ、コンピュータに関わる仕事にはできるだけ近づかないよう日頃からそれとなく働きかけることも怠らなかった。「パソコンは駄目だ」、「移動があっても電算業務だけは行きたくない」などと、事あるごとに周囲にアピールし続けていた矢先。
これまで、絵だのスカイダイビングだの書道だのと、仕事に身を入れない私にそんな人事が下されたということは、やはり懲罰的な意味合いもあったのではないか。

事務局は調整の仕事。とはいえ、コンピュータの実用的な知識や、業務システムについて理解していなければ、とても務まりそうにない。さすがに途方に暮れた。
仕方がない。勉強しなければならない。学生時代も受験のときも、絵さえ描いていれば良かったこの私が、なんと「勉強」というものをすることに・・・(笑)。

コンピュータ全般の知識を体系的にゼロから叩き込むために、当面何をすればよいか考えた末、「シスアド(初級システムアドミニストレータ)」という国家資格の勉強を開始。
どこか学校へ通おうかとも思ったが、適当な学習カリキュラムがあればよいだけで、実際に試験を受けることまでは考えていなかったし、学校で落ちこぼれになりたくなかったので、参考書を1冊だけ購入してだましだまし独学でやることにした。

つづく

 

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