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七田校長の「パソコン音痴からの道のり」
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1992~ 書道師範になる
仕事のかたわら、御徒町にある日本教育書道芸術院という書道学校の師範養成科に入学。(94年師範免状 のち同会依嘱)雅号は「菅石」。現在のイラストのペンネームはそのままここからとった。
「2年で師範」と謳っている学校だけに、けっこうスパルタで、膨大な数の字を書いた。宿題も出たが、自分自身も書き出したら止まらなくて、展覧会前など、一週間に半切(35×136cm)100枚以上は書いていた。
夏季合宿というのもあった。伊豆だの苗場だののホテルの体育館を借り切って、床一面に毛氈を敷き、何十人もの老若男女が床の紙に向かって筆を動かす光景は、普通はちょっと想像できないかもしれない。
在学中は毎年全国公募展に出品し、何度か入賞したことがあるが、あまり実感はない。
小手先が器用なのと、大胆さ、奇抜さで評価されたのかもしれない。正直賞なんて貰っても、自分の字の良し悪しなんてさっぱり分からないのだ。
一度大手新聞社から、取材のオファーの電話を貰ったことがある。
どこで調べたか勤務先に連絡があったので、何事かと思った。
「あ、七田先生でいらっしゃいますか?現在公募展に出品されている先生の作品、とても感銘を受けました!あの大胆な文章が奇抜で素晴らしい。是非日曜版に載せたいので取材させてください!」
どんな文章だったかというと、
彼女の愛するものは
彼女の肩より高く大きく
その一部は
彼女の展いた両脚の間にある
・・・
そんなフレーズで始まるものだった。
ただ、この詩は私が選んだものではない。
展覧会出品のための題材を決めるため、師匠(女性)のもとに自分で選んだワーズワースの詩を持って相談に行ったところ、
「こんなのおとなし過ぎて全然ダメ!あんたの場合はもっとエッチな方がいいのよ!」と言って選んでくれたのがこれだったのだ。
ちなみにその取材のオファーは、その場で丁重にお断りした。
よくよく話を聞いてみると、取材と言いながら「広告料」なるものが発生するというものだった。電話の主はおそらく、記者さんではなく広告屋さんだったのだろう。
本当はしっとりとした大人の字を書きたいと思うが、それにはやはり歳を重ね、徳を積まねばならないのだろう。
普通に字を書かせると、誰が見ても「下手くそ」以外の何物でもない。
現在私はパソコンスクールで、レッスン中にホワイトボードを使うことが多いが、いつも
「すみません、字が汚くて・・」
と言い訳することにしている。すると生徒さんは一瞬ホワイトボードに目をやったあと、
「パソコンやってると、どうしてもね」
とフォローしてくれるのだ(笑)。
今も私の自宅の押入れには、書道学校から戴いた開塾用の看板が、退屈そうに眠っている。
この学校に通って本当に良かったのは、いろんな世代や立場の方々とわだかまりなく話ができる環境が用意されていたこと。
入学してまもなく、性別も年齢もばらばらの5、6人の仲間ができた。構成は、会社の役員らしき熟年の男性、OL、社長さん、フリーのデザイナー、主婦、そしてサラリーマン(私)。いつも一緒に行動するようになり、互いに敬意を払いながらも、食事をしたり、書道や映画や本の話をし、その仲間同士で毛筆のリレー小説を交換したりもした。私たち以外にも、同じようなグループが沢山できていた。
「書道」という世代を超えた共通テーマのもとに人が集まると、各人の本業での立場とか、年齢差という垣根はいっさい取り払われてしまうようだ。理想的なコミュニティであり、私のスクール運営の目指すところでもある。
ただひとついえるのは、当時の私のような30代前後の男性の勤め人は、一番数が少なかったこと。当然か。この世代は中堅クラスの働き盛りで、趣味などに時間を割く余裕もないのが普通なのだから(笑)。



左の2点は東京書作展入賞作品。
右の写真は母親がくも膜下出血で倒れたころ書いた写経。私は無宗教だが、不思議なもので自分の力でどうにもならない状況下では、どうやら神仏に頼ってしまうようだ。本当はお寺に納経すべきものなのだが、ずぼらな私はそういうことも知らずただ書きっぱなしだった。引越しのとき押入れの奥からしわくちゃな状態で出てきた。今思えば母親のためというよりは自分のために書いたような気がする。
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